希望への旅先案内人、國弘正雄先生との遭遇

2011年5月29日
若林 英男

國弘正雄先生は有能な弟子を多数輩出されている。もっとも、先生は「親鸞は弟子一人ももたず候。」(歎異抄)と、親鸞のごとく弟子を公認されることはないと言われる。従って、全ての弟子は自称弟子と言うことになるだろうか。沢山の自称弟子の中にあって、どう贔屓目に見ても出来のよろしくない自称弟子の私ではあるが、先生から与えて頂いた教えは
何よりもかけがえのないものである。そこで、私と先生との縁や先生から授かった教えを御紹介したく記憶に辿りながらここに綴ってみた。

1. NHKテレビ英語会話
1965年からNHKのテレビ英語会話中級(後にStepIII)の講師として活躍された國弘先生の知名度は、1969年のアポロ11号の月面着陸テレビ生中継の同時通訳で一躍全国区になった。当時、私は未だ中学1年生だったが、月面着陸の衛星生放送を驚嘆しながらテレビにかじりついて観たのを記憶している。 月面に人が降り立ち、それが生中継され、そして同時通訳される。中学生の少年には衝撃的な出来事だった。1973年から大学のESS(英語クラブ)活動に没頭する中で、NHKテレビ英語会話中級の講師としての國弘先生の存在に再び遭遇した。それまで数々の英語会話の教材を試した私は、國弘先生の番組を観て驚きと興奮を覚えた。英語会話という概念をはるかに超えた、英語をツールとした知的交流番組だったからだ。ゲストとの会話全てがテキストの活字になり、会話が活字に耐える、そして日本語訳と注釈付きが実に深い。一行一行に何冊かの専門書の中身が凝縮されており、テキストを何度も読み返す。在学中(1973-1977)に購入したNHKテレビ英語会話のテキストをめくると、活字になった英語会話の部分や、日本語訳と注釈の部分に下線や走り書きの跡がありページが手垢で汚れている。何度も読み返したのだろう。当代屈指の政治家や学者を海外から招待して丁々発止と渡り合い、それらのゲストの専門分野を徹底して掘り下げる。 さながら日本版トークショーだ。 今から振り返るとNBC(現msnbc)のMeet the Press、CBSのFace The Nation, 2010年末まで続いたCNNの看板トーク番組 Larry King Liveと比べても全く見劣りしない。それどころか、ディベート調の質問でゲストを二分法的に切っていく欧米型のインタビュー番組より深みがある。今ではこのような番組はNHKも民放もやっていない。海外の番組が手軽に観ることができる現在、もはや教養番組としても不要ということか。或いは、力量のあるインタビューアーがいない、或いは、途中で編集できないトークショーはリスクが伴う、或いは、教養番組として必要でも民放はスポンサーがつきにくいということか、何れにしても寂しい限りである。

2. 英語道場の司会
学生当時、新大阪の勤労者センターで毎週土曜日に松本道弘先生が英語討論会・英語道場を主宰され司会をされておられた。私は大学のESSでの英語学習では物足らず、英語力を向上させたいと願って英語道場の門をたたいた。関西の英語の猛者が集まる英語討論会のみなぎる熱気と気迫に圧倒され、毎回緊張しっぱなしで何を発言したか全く記憶にないこともしばしばだった。松本先生は未だ全国的には無名に等しい存在だったが、國弘先生が1977年3月のNHKテレビ英語会話StepIIIを最後に降板されると、4月から後任のインタビューアーとして登場され、1979年に「私はこうして英語を学んだ」(実業ノ日本社)が30万部のベストセラーになると、一躍、学生やサラリーマン英語学習者のカリスマ的存在となった。全国から英語の達人が集まり30人分ほどの会議室の椅子が毎回足りなくなるほどの賑わいで熱気がすごかった。 英語の達人達に交じって私も負けじと英語の技を磨いた。松本先生の教えに従いTime Magazineを只管読んで学習した。お陰で、確かに大学のESSだけでは到底身につかない英語力は会得したと思う。それでも國弘先生のトークショーが目に焼きついている私は何かが違う、何かが足りないと満足できなかった。松本先生の活躍の場が東京に移った後、私は何人かと交代で新大阪の英語道場で司会をやり始めた。社会人2年目1978年だった。

学生時代にアカデミック・ディベートを少しかじった。米国のアカデミック・ディべート・コンテストの学生チャンピオンだったカール・ベッカー氏(現在は京都大学未来研究センター教授・死生学で著名な宗教学者)を招いてディベート合宿もした。多少なりともディベートコンテストの経験のある私は松本先生の強調されるロジック、論理的思考には僅かながらではあるが自信はあった。ただ、英語道場で英語討論の司会をする時、無意識のうちに曖昧さを許さない排中律的ディベート的な質問を繰り返し、発言者の心証を害したり、感情的な反応を誘因することもしばしばだった。グループで討論者の意見を十分に吸い上げて問題の解決策を見出そうとするのがディスカッションだが、法廷での尋問同様、真理の追究のためのディベート的質問はしばしば誘導尋問になってしまい、ディスカッションで用いるには効果が極めて限定的だった。相手の最も言わんとする部分まで掘り下げて見せる國弘流の芸術的な技に遠く及ばぬことを嫌というほど思い知らされた。 深い知識、広い知的枠組み、哲学的な思惟、豊富な英語のボキャブラリー、的確で格調の高い英語、卓越したリード、議論の目的意識、知への飽くなき追求心、度量、どれをとっても先生と比べること自体が恥ずかしいと悟った。 英語はあくまでも道具であり、その道具を使用して何を語るかが肝心であるという同じ思いの同志と協力して、1982年にEnglish Forum Michiという英文のnewsletter 出した。何回かnewsletter を出していく中で、英語道場というネーミングは我々の方向性や時代にそぐわないのでShin-Osaka International Forum (通称IF:イフ)にしようということになり、英語道場創始者の松本先生に相談することなく1983年に勝手に改名してしまった。あの時、松本先生に同志の思いを伝え、正々堂々と改名するべきだったと若気の至りを後悔している。

3. 同時通訳者の前に文化人類学者
話は前後するが、1975年に國弘先生を大学のESSの仲間達とキャンパスに招待して「同時通訳者、國弘正雄先生来たる」と校門前に大きな看板を掲げたが、驚いたことに先生はこの看板を見るや否や「なんだこの看板は!俺はもう帰る!」と激怒された。慌てた仲間が何とか説得して講演会は無事に終了したが、冷や汗をかいた。同時通訳の神様と英語学習者の中では神格化されている存在にも関わらず、同時通訳者と呼ばれることを嫌がられた。ベースはあくまでも文化人類学者であるとの御認識のためであった。1974年に椎名裁定で誕生した三木武夫内閣の外交ブレーンとして外務省参与の肩書で活躍され、和製キッシンジャーの異名をとる存在であったが、外務省からは「通訳」と一段見下すような傾向があったと聞いている。このことは先生から直接お伺いしたように思うが記憶は定かではない。たぶん、主導権を握りたい当時の外務省からは、三木・フォードの密談など外務省頭ごなしの三木外交の顔の見える黒子、國弘先生がやっかみの対象だったのではなかろうか。そのようなこともあって外務省から通訳呼ばわれされた先生は、当時、同時通訳者という呼び名にも敏感になっておられたのではないだろうか。もうあれから37年も経っており、今更、真意のほどをお伺いすることに意味もないかと思う。何れにしても、先生にお叱りを受けたことで、同時通訳者という肩書は、國弘先生のひとつの顔にすぎず、本質的な部分ではないということを再認識させられた。これを機に、先生の同時通訳の技より、伝えようとされる内面的なものに一層関心を払うようになったことは確かである。

4. 青年へのエール:生物学の法則は常に若者の味方である
1975年当時、大学教授、NHK英語会話の講師、同時通訳者、三木武夫内閣の外務省参与と何足ものわらじを履きながら殺人的なスケジュールに追われる中、関西の英語学生達のため先生に貴重な時間を割いて頂いたことが、今思えば如何に尋常ではないことだったか良く判る。キャンパスでの講演会の後、大阪の吹田市のお寺が所有する宿泊所で夜を徹して熱く語られた姿は今でも脳裏に鮮明に焼き付いている。三木武夫首相・フォード大統領密談に國弘先生だけが通訳者として同席された時の、メディアに出ない貴重な生の裏話もお伺いできた。まるで別世界の外交舞台の生々しい秘話は、当時の我々英語学生の血を騒がさないではおかなかった。先生は若い世代によくBiology is always on the young. 生物学の法則は常に若者の味方である、と語っておられた。ノーベル医学生理学賞受賞の生化学者、アルバート・セント=ジェルジ博士の著書「狂った猿」を國弘先生が翻訳されたが、その著書の中に出てくる言葉である。私なりの解釈だと、何れ君たちの時代が来るんだから、その心構えで今のうちに自分を高めておくんだよ、という青年への精一杯のエールだと思う。未来への夢や願いを若い世代に託された熱い想いが伝わってくる言葉である。

5. 沖縄との縁
2002年5月にイフ(Shin-Osaka International Forum)で先生の講演会を開催したが、喜納昌吉&チャンプルーズの公演会にも先生は同日招待されていたため、先生は丁重な出席ご辞退のレターを書かれ、それを依頼された私がFAXでプロダクションに送信した。丁度その頃、沖縄民謡に心頭していた高校3年生の私の娘は、ウチナー・ポップの代表、喜納昌吉氏を学園際に招待したいと願っていた。「先生から喜納さんを紹介して頂くよう頼んでみようか。」と娘に聞いてみたが、彼女以外の生徒会の役員は吉本興業の若手お笑い芸人を希望し、結局、彼女の願いはかなわなかった。当時、娘は沖縄で暮らすことを既に決めており、同年7月の國弘正雄関西トークイベント(在日や韓国人大学生の協力で実現した講演会)の席で、國弘先生にそのことを伝えた。 國弘先生は、元沖縄県知事で当時は参議院議員の大田昌秀先生の著書「醜い日本人」(岩波書店)に大田先生の直筆サインをもらって娘に餞別代りとしてその本を贈られた。折角、大田先生直筆サイン入りの著書を國弘先生から頂きながらお礼の返事もしない娘にお叱りの電話を頂き、娘も謝罪とお礼の手紙を慌てて送り、私も親としての監督不行き届きの責任を謝罪した。娘に対する先生の叱咤激励の熱い気持ちと沖縄への強い想いが伝わる出来事だった。娘が「醜い日本人」を沖縄に持参する前に私も目を通したが、数々の証拠や証言をもとに生々しく克明に綴られた沖縄戦の惨状に、途中何度も目頭を抑えずにはいられなかった。動機が何であれ、沖縄で生活しようとする娘にこの本を贈られた意味が良く理解でき、心から有難いことだと思った。

もう30年以上も前、1978年頃、私は当時勤務していた会社から沖縄県糸満市にある得意先に頻繁に出張していた。当時は沖縄市(旧コザ市)では未だ米ドルが流通し、1972年に本土復帰以降も1978年まで車も右側通行だった。1964年当時の米国統治下の沖縄の陪審制度を題材にした伊佐千尋のノンフィクション作品「逆転」(1977年、新潮社)が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのもその頃だ。何度も糸満市を訪れながら、当時はその歴史的背景に全くもって無知だった。恥ずかしい限りである。その地がひめゆりの塔がある沖縄戦最後の戦場であることを知ったのはずっとその後である。24万人とも言われる尊い犠牲者を出した沖縄戦の歴史的な場所だったことも知らなかった。どうしてそんなことも知らなかったのか悔やまれる。文部省の教育方針を恨みたくなるが、やはり、沖縄について関心を持ちその歴史を学ばなかった私自信が悪いのである。我が家を発って沖縄の住人となる娘に私の轍を踏まぬようにと願った。

8年間住み慣れた沖縄を後にして、娘は今年1月で3歳になった男の子と一緒に尼崎に戻ってきた。娘に感謝していることは何よりも元気な男の子を産んでくれたことである。生まれて100日目に沖縄ではお祝いをするが、エイサーの衣装を着せて撮った孫の記念写真を國弘先生に見て頂いた時、とてつもなく優しい目で黙ってじっと見入っておられた。沖縄の血が入った孫は今ではエイサーの太鼓の音で自然と踊りだす。「きっとこの子はこの世の中にどうしても生まれてきたかったんだと思う。私が沖縄に惹かれて尼崎を出て行ったのも、この子を産むためだったような気がする。」と娘は話す。将来、この愛おしい孫がウチナンチュウーとヤマトンチューの架け橋になってくれる日が来ることを願う。

6. 後輩の不幸が講演会開催を後押し
2002年及び 2003年に國弘先生をイフ(新大阪インターナショナル・フォーラム)主催の講演会に招いて、80名近い聴衆に英語で講演して頂いた。聴衆のほとんどである英語学習者は、同時通訳の神様との異名を取る國弘先生の生の英語を聞きたいという強い願望があった。内容に重きを置かれる先生は英語での講演にあまり乗り気ではおられなかったが、
無理を言って敢えて英語での講演をして頂いた。英語学習者に英語を媒介にして多少なりとも先生の語られる貴重な内容に触れてもらえればという動機で敢えて英語を使用して頂いた。相も変わらず同時通訳の神様と崇められることに、内心はうんざりされておられたことだろう。昔の名前で出ていますだよ、と少し自嘲気味に仰ったことが記憶に残っている。今振り返れば、私の動機は参加された英語学習者に対してお節介で独りよがりなものだったかもしれない。また、私がそうであったように英語が好きで純粋にうまくなりたいと願う英語学習者の動機はそれはそれで貴重なものかもしれない。

2002年5月の講演会直前に新大阪駅構内の喫茶店で打ち合せをしていた時のことだった。私の大学時代のESS(英語クラブ)の後輩、YJの話が出た時のことだった。突然、先生の言葉が詰まり目が潤んだ。YJは、「細うで繁盛記」というテレビ番組のモデルにもなったといわれる芦原温泉の老舗旅館の御曹司だった。米国留学を終えて帰国してからは、旅館の経営、日本青年会議所の国際部での国際交流担当に加えて1995年の阪神大震災後のボランティア活動にも積極的に従事し多忙を極めていた。自己犠牲的な過労の所為だろうか、或る朝ついに床から起き上がることなくそのまま永遠の眠りについた。誰に対しても決して驕ることなく、分け隔てなく、どこまでも優しく接する彼の姿は学生時代から誰からも慕われる存在だった。國弘先生を大学のESSの講演会に招待して以来、先生を慕い交流を絶やさなかったようである。そのような彼が若くして忽然と先生の視界から消えてしまったことに先生は酷く心を痛めておられた。彼の訃報は、我々大学のOBにも大きなショックだった。私とYJとは社会人になってからも何人かとドライブに出掛けたりプライベートの時間を一緒に過ごすこともあった。後輩というより同志、仲間という存在だった。若くしてこの世を後にする彼の無念さや彼の先生への想いを考えると、今再び先生の講演会を是非開かなくてはと思った。これはイフの講演会に先生を招待する大きな動機づけのひとつになった。

7. 北東アジアメディアフォーラム主催講演会
2002年7月在日や韓国の大学生、日本の英語学習者を集めて國弘先生のトークイベントを
開催した。英語で語る機会からは遠ざかっておられた先生に久々に格調高い英語で語って頂いた。私は英語を使って司会をしたが、私にとっては依然として同時通訳の神様である先生の前で緊張した。外資に通算25年も勤務して英語を駆使することに緊張などほとんどしたこともない私だが、この日ばかりは様子が違った。後半は日本語で國弘節が炸裂した。
内容は相も変わらず濃いものだった。活字にすることははばかるような過激な部分もあったがそれ故にトークイベントは盛り上がった。

印象的だったのは、当時の小泉首相のブッシュ大統領への盲目的追従を、「何処までもついて行きます下駄の雪ならぬ下駄の泥」と酷評されたことだ。英国の新聞、The Observerで使った hailed to the heelsという英語の表現も紹介された。2004年5月3日の憲法記念日に、今は亡き筑紫さんのTBSの番組の中でも、保守の改憲派急先鋒、保岡氏を相手に國弘先生は小泉内閣の盲目的対米従属を「何処までもついて行きます下駄の雪」と同じ表現で痛烈に皮肉られた。その番組をたまたま観ていた私は、先生の勇気ある発言をあっぱれと思い手紙でその気持ちを伝えた。

講演の中で、もうひとつ印象的だったのは金大中拉致事件の裏話だ。後に韓国大統領となる故・金大中(キム・デジュン)氏は韓国民主化闘争のリーダーだった1973年当時、東京のホテルに滞在中、朴正煕(パク・チョンヒ)政権下のKCIAによって拉致され日本から出港した船の上で危うく殺害されるところだったが、船上を旋回する軍用機によって殺害は中止された。この有名な金大中拉致事件は映画化もされた。先生によると、自民党の故・宇都宮徳馬氏(軍縮問題資料主催者、元参議院議員)と当時の米国国務長官、ヘンリー・キッシンジャー博士が協力して金大中氏の命を救うのに一役買ったというものだった。故・宇都宮徳馬氏と親交が厚かった國弘先生は軍縮問題資料の編集人でもあるが、先生自身が金大中救出劇に関わっておられたのか、ご本人から語られることはなかった。

北朝鮮の故・金日成(キム・イルソン)国家主席に故・宇都宮徳馬氏が招待された折に國弘先生も誘われて訪朝する予定だったが、直前にメディアに嗅ぎつけられて同行訪問を断念されたとのことだ。

2001年9月11日、國弘先生は当時、韓国大統領の金大中氏に大統領官邸に招待されていたが、正にその日、あの米国同時多発テロが発生したため、大変残念ながら大統領との面談が急遽キャンセルとなったとのことだった。

8. 在日の友人
先生が英国エジンバラ大学など海外の大学でも講壇に立たれたことは良く知られているが、朝鮮半島の文化にも専門家として造詣が深く、高麗大学でも講壇に立たれていることはあまり知られていないかもしれない。高麗大学のASIATIC RESEARCH CENTER 出版のKOREA AND JAPAN – A New Dialogue Across the Channel の論文集にもConformity and Familiarization: Reflections on Japan’s Political Culture と題した33ページもの英文の論文を載せておられる。また、Cultural Interaction between Korea and Japan という題の27ページの英文の論文も発表されている。先生は色んな意味で朝鮮半島のとの文化的、人的な関わりあいが深く、また在日の友人との交流も深い。

2002年にイフで講演会を開催した折に、在日の友人、洪さんを先生に紹介して頂いた。以来、縁あって親しくさせて頂いている。北東アジアメディアフォーラム主催の國弘先生トークイベントも洪さんとの協力がなければ実現しなかった。

新渡戸稲造の「太平洋を架ける橋になりたい」の言葉に対して、先生は「せめて太平洋を架ける橋の橋げたにでもなりたい」と謙遜されておられる。身の程知らずだとの批判を覚悟で言えば、私はその途方もなく大きな異文化に架かる橋の橋げたの小さな小さなかけらのひとつにでもなれれば幸いと思っている。 先生は未来の希望への旅先案内人である。先生に励まされて一人でも多くの青年が希望という名の未来に向かって異文化の架け橋、平和の架け橋の架線作業に携わることを切に願う。

「希望への旅先案内人、國弘正雄先生との遭遇」への2件のフィードバック

  1. 水口栄一 より:

    私は中学時代から同時通訳者を目指して英語の勉強をしてきました。そのきっかけとなったのが國弘正雄先生です。20代の頃に國弘正雄先生のお世話になりました。それだけにこの記事はとても興味深く読ませて頂きました。ありがとうございました。

  2. 若林 英男 より:

    水口様

    この記事を書いた若林です。水口様がいつコメントされたか分かりませんが、たまたま目に入りました。。
    國弘先生の自称弟子としては、貴重な同志のおひとりに記事を見て頂いたことがとても嬉しいです。
    いつかお会いして國弘談義ができれば幸いです。

    私は長く外資に身を置き、複数の外資系日本法人の代表職を退任した後、企業での英語研修講師をしておりましたが、2018年から関西圏の複数の大学で非常勤講師(派遣)として英語の教鞭をとっています、
    また、2015年からは東京の外語系大学のキャリアカレッジとの委託契約で、外務省本省職員、在外公館の職員の外交関連英語(英文プロトコールメールや時事和文英訳)の添削・評価をしております。國弘先生が外務省参与の折に色々なお話を聞きましたが、まさか、40年後に自分が外交官に英語の指導をすることになるとは想像もしませんでした。これも何かの因縁を感じます。

    長々とコメントしてしまいましたしたが、もしよろしければ、ご連絡頂ければ幸いです。
    連絡先:hideowakabayashi0604@gmail.com or osnd-jfa@ares.eonet.ne.jp 

    若林拝

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